強迫性障害の「こだわり」とは
強迫性障害の「こだわり」とは?
あなたのこだわりは何でしょうか?
たとえば、コーヒーは豆から挽いて飲む、とか、朝起きたらまずジョギングをする、とか、他にも色々考えられますが、誰しもこだわりの一つや二つを持っているはずです。
ただ、きっとそのとき、そのこだわりは一日のリズムを整えたり、気分を良くするために行われているはずです。
何かにこだわりを持ち、そのこだわりを実際に行動に移すことで、一般の人は幸せになれるのです。これが健全な形のこだわりです。
それに対して、強迫性障害にかかった人の「こだわり」は異なります。
強迫、という物々しい名前が付いている通り、自分自身でこだわっているのではなく、自分自身の脳や神経に「こだわり」を強要されているのです。
たとえば、家の鍵を閉めたかどうかを入念にチェックすることで、1日安心して生活することができるならば、その確認行動は安心という幸福感につながります。
しかし、安心を得るために鍵を閉めたかどうかを100回確認しなければ済まない、としたらどうでしょう。
安心を求めるために確認をするのではなく、不安や恐怖が頭にこびりついて離れず、それが収まるまで確認行動を余儀なくされるとしたら、どうでしょうか?
強迫性障害の「こだわり」は、どこまで行っても幸せになれないこだわりなのです。
どこまで行けば病気なの?
では、健全なこだわりと強迫性障害の「こだわり」はどこが違うのでしょうか?
まず一つは、こだわりの強さです。健全なこだわりであれば、生活に支障が出るまで強くなったりしないはずです。
あくまでも生活にアクセントをつけるために、行われます。それに対して強迫性障害の「こだわり」は、あまりにも強いので生活に支障が出ます。
さっきの例で行けば、100回家の鍵を確認しなければ外出できないとなれば、家を出るのにどれだけの時間をロスすることになるでしょうか。家から出ることができなくなってしまうかもしれません。
もう一つは、こだわりをすることでちゃんと満足感が得られるかどうかです。自分自身のこだわりを達成することで充実感が得られたり、一日の弾みになるとすれば、とても健全な生活習慣です。
しかし、ただ頭の中に押し寄せてくる不安や恐怖感から逃れるためだけに「こだわり」続けているのだとすれば、それはもう、満足を得るためだけではなく、その場をしのぐために行動を強制されているのと変わりありません。
ある「こだわり」のせいで、著しく生活が歪んだものになってしまっているとすれば、それは病気と呼ぶべきでしょう。
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