強迫性障害における不潔恐怖
強迫性障害における不潔恐怖
私たちは常に菌やほこりにさらされながら生きています。
人間の生きる環境はクリーンルームではなく、人が話せば唾液が飛散し、くしゃみをすれば数メートルにも及んで体液が飛びます。
決して悪い菌ばかりではなく、皮膚常在菌のような良い菌も含めて、完全な「清潔」と完全な「不潔」の間で暮らしています。
そのなかで、潔癖症―――それも病的なレベルの潔癖症の持ち主がいたらどうなるでしょうか?
ドアのノブに触れれば、自分に何か悪い菌が付いたのではないか、と思い、電車のつり革を握れば、手がバイ菌でドロドロに汚染されたかのように思うことでしょう。
ここで、常軌を逸した潔癖症の持ち主は、家に帰ったら手洗いうがいをしましょう、というレベルとは別次元の行動をとります。少しでも汚れが残らないように、何度も手洗いをし、アルコール洗浄をし、あるいは何度もお風呂に入ります。
汚れは具体的なものではなく、「汚れている」という頭に染みついた不快な観念(強迫観念)です。
手を洗うことは、その観念が収まるまで続きます。何度手洗いをしても、汚れている、ではなく、汚れている「気がする」「ように思う」という状態が続く限り、強迫行為は終わりません。
綺麗好きと何が違うの?
病的ではなく綺麗好きな人ならば、手洗いやうがいをこまめにするでしょう。しかし、そのときには、現実と妥協するポイントがあるはずです。
たとえば、習慣としてする、汚れが見えないところまでする、匂わないようにする、といった形です。
強迫性障害の人は、そうした現実との折り合いで、行為するわけではありません。頭の中にこびりついて離れない不潔恐怖(強迫観念)を収めるために、手を洗い続けます。
綺麗になる、ということは現実の状態ではなく、自分自身が汚れているという思考を満足させるために実行されます。
この思考や観念は特に根拠なく、頭に染みついてしまうため、現に手が綺麗になってもその恐怖感が薄れるまで手洗いが続くことになります。
現実的な綺麗好きが、綺麗が好きで、綺麗な状態を目指しているのだとしたら、強迫性障害の不潔恐怖の持ち主は、実際に綺麗かどうかを度外視して不潔を感じる思考を振り払うために行動しているのです。
実際に汚れているか汚れていないかは行動を終わらせるきっかけになりません。ただひたすら、恐怖から逃れるために、行動するのです。
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